第四百八十七章 家宴の仮面 血の祝祭は家族から始まる


夜風が港の匂いを運ぶと、古い家屋の窓は額縁のように暮らしを切り取った。だがその額縁の中で、家族は既に別の儀式を始めていた。外から見れば普通の食卓。だが皿の上に置かれたものは、誰かの秘密と罪を映す鏡だった。暁影隊が「侵入」と呼んだ現象は、今や家族の内側へと入り込み、最も近しい者同士が互いを疑い、喰らうような狂気へと変貌していく。

1 招かれざる家宴

白羽が到着したのは、港町の外れにある古い二階家、佐伯家だった。表札は歪み、門扉には赤い糸が一重に結ばれている。玄関を開けると、居間にはまだ食事の跡が残っていた。テーブルの上には皿が並び、ナイフとフォークが整然と置かれている。だが皿の一つだけ、布で覆われている。

「ここで何が起きた?」白羽が低く問うと、巡回班の佐伯(別人)が答える。彼は震えた声で言った。 「家族の一人が…消えたんです。昨夜の晩餐のあと、妹がいなくなった。部屋には血の跡があって、でも外には出ていない。鍵は内側から掛かっていた」

階段を上がると、二階の廊下に家族写真が並んでいる。写真の中の笑顔はどれも歪んで見えた。白羽は写真の一枚を手に取り、指先で縁をなぞる。写真の裏には、鉛筆で小さな丸が描かれていた。丸は赤い糸で繋がれているように見えた。

2 家族の肖像と狂気の兆候

佐伯家は表向きは平凡な家族だった。父は漁師、母は近所で評判の料理上手、長兄は工場勤め、妹は夜にアルバイトをしていた。だが近所の噂は違った。母は誰かを「迎える」ために古いレシピを守り、父は夜ごとに倉庫へ出入りしていたという。白羽は家族の証言を一つずつ拾う。

母・節子は目を赤くして座り、静かに言った。 「昨夜は普通の晩ごはんだったのよ。みんなで座って、笑って。けれど、妹が最後に立ち上がったとき、何かが変わった。彼女は窓の外を見て、誰かに微笑んだの。『来てくれたのね』って」

長兄・浩二は拳を握りしめ、声を荒げる。 「そんなはずはない。俺たちは家族だ。誰がそんなことを…」

だが言葉の端に、彼自身の不安が滲む。零が端末で解析したログは示していた。家の中の位相ノイズは、昨夜深夜に局所的なピークを示し、特定の周波数帯が人の感覚閾値を下げている。「見られる」ことが、家族の内面を露わにしたのだ。

3 仮面と赤い糸の儀式

白羽が二階の一室を調べると、床に小さな仮面が落ちていた。仮面は白く、口元に細い切れ込みが入っている。仮面の裏側には、赤い糸が結び付けられており、その糸は床の隙間に消えていた。近くの棚には、古い家族のアルバムと、母が大切にしていた料理ノートが置かれている。ノートの間に挟まれた紙片には、奇妙なメモがあった。

「祝祭は近しい者から始まる。最初の一口は、真実を明らかにする」

白羽は息を飲む。言葉は儀式を示唆していた。梟が冷たく言った。 「誰かが家族の中に『演出者』として紛れ込んでいる。あるいは、家族自身がその役を担っている。どちらにせよ、犠牲は内側から生まれている」

そのとき、廊下の奥から小さな物音がした。白羽は銃を抜き、ゆっくりと音のする方へ進む。扉の隙間から覗くと、暗がりの中で誰かが膝を抱えて座っていた。顔は仮面で隠れている。仮面の目の穴から、二つの瞳がこちらを見返した。

4 食卓の演出と犠牲者の告白

仮面の人物は、ゆっくりと立ち上がり、低い声で言った。声は家族の誰かに似ているが、どこか歪んでいる。 「祝祭は始まった。最初の一口は、最も近しい者のものだ」

その瞬間、階下から叫び声が上がる。白羽と梟が駆け下りると、居間のテーブルの布が引かれ、布の下から血の跡が見えた。だがそこに倒れていたのは、見知らぬ男だった。男は震えながら言った。 「彼らは…家族の中にいる。母さんが、父さんが、兄さんが…でも、違う。目が違う。彼らは私を見て、笑った。『食べる準備はできたか』って」

男の言葉は断片的で、恐怖に満ちていた。白羽は男の服の袖に付いた赤い糸を見つける。糸は家の中で見つかったものと同じ繊維だった。零が端末で近隣の通話ログを解析すると、昨夜の深夜に家の外で複数の短い会話が交わされていた。だが発信者は家族の携帯ではなく、匿名の端末が混ざっている。

5 仮面の正体と家族の分裂

白羽は家族を一列に並べ、問い詰める。母は涙を流し、父は俯き、長兄は怒りを抑えられない。だが妹の部屋だけが空だった。床には仮面のもう一つの破片と、皿に残された小さな骨のようなもの(動物の骨かもしれない)が置かれている。匂いは古い香辛料と鉄の混合で、説明しがたい。

「誰が妹を連れ出した?」白羽が問う。誰も答えない。沈黙が重くなる。すると、母が震える声で言った。 「私が…彼女を呼んだの。あの夜、誰かが窓の外で歌っていた。彼女は窓を開けて、『来てくれたのね』って言ったの。私はただ、家に戻ってきてほしかっただけ…」

その告白は、家族の間に亀裂を生む。長兄は母を突き飛ばし、父は制止する。白羽は冷静に言った。 「『呼んだ』というのは、誘いだ。誘いは合意か、強制か。どちらにせよ、誰かが家族の中で役割を演じている。演出者は仮面を被り、祝祭を仕掛ける」

そのとき、二階の窓から薄い影が滑り落ちる音がした。白羽は振り向き、窓の外を見た。暗闇の中、仮面を被った人物が家の影に溶け込むように消えていく。だがその足跡は、家の中の赤い糸と繋がっているように見えた。

6 夜の決断と残響

夜が更けると、佐伯家は分断された共同体になった。家族は互いを疑い、誰もが自分の手を洗い続ける。白羽は家族の一人一人に対して、夜間の監視と隔離を命じる。だが隔離は安全を保証しない。仮面は家族の中に潜み、祝祭はまだ終わっていない。

白羽は仮面の破片を掌に載せ、冷たい決意を固める。梟は地図に保全線を引き、零は端末のログを再解析する。被害者の告白、赤い糸、仮面の装飾、家族の矛盾する証言――それらは一つの絵を描き始めているが、輪郭はまだぼやけている。誰が演出者なのか。家族の中に複数の共犯者がいるのか。あるいは、家族そのものが仮面を被っているのか。

白羽は静かに言った。 「家族は最も近しい観客であり、最も近しい素材だ。演出者はそれを知っている。次に何が起きるかは分からない。だが我々は、家の中の仮面を剥がす。剥がしたときに、何が残るか――それを見届ける」

窓の外、港の風が赤い糸を揺らす。家の中では、誰かが小さな歌を口ずさんでいる。歌は古い子守唄のようで、だがその最後にはいつも同じ一節が付け加えられていた――「最初の一口は、家族のもの」。その言葉が夜に溶けるとき、白羽は拳を固め、次の夜に備えた。


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