〈初稿〉短編ホラー『五メートル先の住人』

シャルル・ボネ症候群(CBS)の“鮮明で複雑な幻視”という医学的特徴を核に据えた、生々しくも心理的に迫る短編ホラーを書きました。CBSは視力低下者に起こる“偽幻覚”で、患者本人は「これは現実ではない」と理解している点が特徴ですが、だからこそ“理解しているのに消えない恐怖”が物語の芯になっています。

夕方の診察室で、老眼鏡を外した瞬間だった。 視界の端に、小さな女の子が立っていた。

五メートルほど先。 輪郭は妙にくっきりしているのに、色だけが滲んでいる。 まるで古いブラウン管テレビの残像のように。

「また……出たのかい?」

医師の声に、私はうなずいた。

視力が急激に落ちてから、私は“それ”を見るようになった。 医師は優しく言った。

「シャルル・ボネ症候群です。幻視ですが、精神疾患ではありません」

――幻視。 ――偽物。

そう言われても、あの子は毎日、同じ距離に立っている。 五メートル。必ず五メートル。

家に帰ると、薄暗い廊下の奥に、またあの子がいた。 白いワンピース。 顔は、いつも髪で隠れて見えない。

私は声をかけた。

「……あなたは、誰?」

返事はない。 ただ、首をかしげたように見えた。

幻視は視線を動かすと消える――医師はそう言った。 試しに、私は視線を横にそらした。

消えた。

だが、次に視線を戻したとき、 距離が四メートルになっていた。

胸が冷たくなる。

翌日。 買い物帰りのエレベーターの中。 鏡の中に、あの子が映っていた。 三メートル。

私は震える声で言った。

「……やめて。近づかないで」

幻視は“現実ではない”。 そう理解しているのに、心臓は暴れ馬のように跳ねた。

夜。 寝室のドアを閉めたはずなのに、 気配がした。

二メートル。

布団の中で、私は目を閉じた。 幻視は目を閉じても現れることがある――医師の言葉が頭をよぎる。

恐る恐る目を開ける。

一メートル。

白いワンピースの胸元が見える。 顔はまだ髪で隠れている。

「……どうして、近づくの?」

その瞬間、あの子の肩が、ぴくりと震えた。

そして――

髪の隙間から、こちらを覗いた。

目が、あった。

その瞳は、私の瞳と同じ色をしていた。 いや、同じどころか――

私の“失われた視力”の奥に残っていた最後の像そのものだった。

「返して……」

声がした。 幻視には音はないはずなのに。

「返してよ……あなたが奪った“見える世界”を……」

その瞬間、あの子の顔が、ぐしゃりと歪んだ。 色が滲み、形が崩れ、視界いっぱいに広がって――

私は叫んだ。

次に気づいたとき、朝だった。 あの子はいない。

だが、部屋の隅に、五メートルの位置にだけ、影が落ちていた。

そこだけ、光が届かない。

まるで―― 誰かが立っている場所だけが、世界から切り取られたように。

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