──語り手:覗き込む者、手を差し伸べる彼女、そして底を持たない闇
深淵は声を持たない。声を求める者の胸だけが、そこに残響を受け取る。
倉庫の扉を押し開けると、空気が一瞬で重くなった。湿った紙の匂いに混じって、遠い海のような塩気が鼻腔を刺す。灯りは一つだけ。灯の周りに影が集まり、影は互いに触れ合っては溶ける。あなたは箱を抱え、彼女はその隣で静かに立つ。彼女の掌は冷たく、あなたはその冷たさを頼りにしてここまで来た。今夜は頼りが試される夜だ。
一 深淵の縁で聞く音
深淵はまず音で知らせる。足音が二拍目を失い、遠くの時計が一度だけ逆に刻む。蓄音管の針が溝を辿ると、そこからあなたの子守歌が返ってくるはずのところで、知らない笑いが混ざる。笑いはあなたの記憶の縁を撫で、触れた断片を白く剥がしていく。剥がれた断片は空中で粉になり、風に乗ってあなたの耳元を這う。
あなたは耳を塞ごうとするが、塞いでも音は内側から聞こえる。胸の奥で、誰かがあなたの名前を呼んだ残響が薄れていく。残響が薄れるたびに、世界の輪郭が少しずつ滲む。滲みは視界だけでなく、時間の感触をも溶かす。あなたが今ここにいるという確信が、指先から滑り落ちる。
二 彼女の掌と代償の温度
彼女はあなたの欠けを埋めるために手を差し出す。手は冷たいが確かだ。彼女はあなたの忘れた言葉を拾い、あなたの代わりに呼ぶ。呼ぶたびに、彼女の瞳の色が少しずつ薄くなる。薄れる色はまるで夜の中で溶けるインクのようで、笑顔の輪郭が溶けていく。彼女はそれを隠さない。隠す術がないからだ。
あなたは彼女の手を握る。握るとき、掌の裏に小さな傷跡があるのを見つける。傷は新しいのか古いのか判別できない。彼女はその傷を見られたくないように視線を逸らす。あなたはその逸らし方に、彼女が夜ごとに何かを差し出していることを知る。差し出す行為は救いだが、救いは消耗を伴う。彼女の消耗はあなたの胸の中に冷たい影を落とす。
三 悪夢の深淵が映す像
深淵は鏡のように映すが、映るのはあなたが望む像ではない。鏡の中の自分は一拍遅れて動き、笑いは少しだけ歪む。あなたが子どもの名前を呼ぶと、鏡の中のあなたは別の名前を口にする。別の名前は聞いたことのない音節で、聞くたびに胸の中の何かが欠ける。欠けは最初は小さな穴だが、夜が進むにつれて広がり、あなたの輪郭を削る。
夢の中では、あなたは深い井戸の底に立っている。井戸の壁には無数の扉があり、扉の一つ一つが誰かの記憶を閉じ込めている。あなたが扉を開けると、そこから別の人の幼い日の匂いが溢れ出し、あなたの記憶と混ざる。混ざった記憶は朝になるとあなたの胸に残り、元の記憶は薄れている。深淵はそうして他者の断片をあなたの内側に縫い付ける。
四 観測者の理性が裂ける瞬間
観測は秩序を与えるための所作だった。だが深淵の前では理性が紙のように裂ける。あなたはノートに数字を書き連ねるが、数字は意味を失い、行間に別の言葉が浮かぶ。行間の言葉はあなたの幼い頃の秘密の遊び場の名前であり、あなたが忘れたはずの約束の一節だ。記録する行為が、逆に記憶を引き剥がす触媒になる。
あなたは叫びたくなるが、声は喉の奥で薄くなる。声が薄れると、彼女が代わりに叫ぶ。彼女の叫びは確かに届くが、届いた先で形を変えて戻る。戻った声はあなたの胸の中に小さな欠片を残し、欠片は夜ごとに増えていく。理性は裂け、残されたのは選択の重さだけだ。
五 深淵との対峙と最後の所作
深淵は差し出しを求める。差し出すとは、最も大切な断片を手放すことだ。あなたは箱から一枚の断片を取り出す。断片は薄く、触れると冷たい。あなたはそれを柱の前に置く。彼女はあなたの代わりに名を呼ぶ。呼び声は空気を震わせ、柱はゆっくりと光を収める。周囲の幾何は一瞬だけ整う。だがその整いは脆く、あなたの胸には新たな欠けが刻まれる。
その瞬間、深淵はあなたの内側を覗き込み、あなたは深淵の底を覗き込む。底は無名で、光も音もない。覗き込むほどに、あなたの視界は引き伸ばされ、時間の感触が薄くなる。あなたは自分が何を守り、何を差し出したのかを忘れかける。忘れは恐怖を増幅し、増幅はさらに忘れを呼ぶ。無限の螺旋が始まる。
六 終章 震える掌と残響
深淵は静かに去ったように見えた。光は消え、街の輪郭は戻ったかに見える。だが戻った世界は元の世界ではない。あなたの胸には新しい穴があり、彼女の瞳は少しだけ白くなっている。彼女はあなたの手を握り、指先の震えを確かめる。震えは恐怖の証であり、生の証でもある。
あなたは羊皮紙に一行を書き残す。文字は震え、墨は滲む。
「深淵を覗いた。底は無名だった。私たちは何かを差し出し、何かを受け取った。受け取ったものは胸の中で腐り、差し出したものは誰かの夜を薄くした」
彼女はその紙を胸に抱きしめ、あなたの手を強く握る。握るたびに、彼女の掌の白さが増す。あなたはその白さを見つめながら、深淵が再び目を覚ます夜を待つ。待つことは拷問だが、待たないことは死よりも恐ろしい。あなたは彼女の掌を離さない。離せば自分が崩れる。握れば彼女が崩れる。どちらを選んでも、深淵は笑わない。深淵はただ、静かにこちらを覗き返すだけだ。

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