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第二百九十三章 名裂の始動

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名の裂け目は、街の中心で静かに開いていた。 静かに――しかし、その静けさは、嵐の前の静けさではなく、 “声が自らを裂く準備をしている静けさ”だった。

裂け目の縁は、光ではなく声で縁取られていた。 声が光のように揺れ、光が声のように震え、 境界がどちらなのか分からなくなる。

街の空気は、もう空気ではなかった。 呼吸をするたび、肺の奥に声の粒子が入り込み、 胸の内側で誰かの囁きが微かに響く。

少女は胸を押さえ、震える声で言った。

「……ここ……声が……全部、私の胸に触れてくる……  知らない声まで……私の名前を呼ぼうとしてる……  やめて……やめて……!」

彼女の声は、震えているのに、震えが外へ漏れない。 声底が声を掴んでいるからだ。 声は震えるが、空気に触れない。 震えだけが身体の内側で増幅される。

リフレインは少女の肩に手を置いた。 その手もまた、声の圧力で揺れていた。

「大丈夫……まだ、あなたの声はあなたの胸の中にある。  深層が奪おうとしても、あなたが拒めば……  声は、あなたの側に残ろうとする。  声は……あなたの生きた時間だから。」

少女は涙をこぼしながら首を振った。

「でも……でも、私の声が……私を離れようとしてる……  私の声なのに……私じゃないところへ行こうとしてる……  どうして……どうして……!」

リフレインは言葉を探しながら、震える声で答えた。

「深層は……声を“素材”として見ている。  あなたの声は、あなたのものだけれど……  深層にとっては、名を作るための核でもある。  だから……引き寄せようとする。」

少女は胸を抱え込むようにして、声を押し戻そうとした。

「いらない……名なんていらない……  私の声は……私のためだけにあればいい……  誰の名にも……使われたくない……!」

その叫びは、空気に触れないまま、 声底の圧力に押し返され、少女の胸の奥で反響した。

深層の守り手の宣告

第三の声は、少女の叫びを聞いても表情を変えなかった。 表情という概念があるのかどうかも分からないが、 その輪郭は揺れもせず、ただ深層の重さを保っていた。

「名の核よ。  あなたの拒絶は理解した。  だが、深層は拒絶だけでは判断しない。  声は、所有だけでなく、共有も奪取もあり得る。  あなたの声がどの形を選ぶか――  それを決めるのは、あなたではなく深層だ。」

少女は震えながら叫んだ。

「どうして……!  どうして私じゃないの……!  私の声なのに……どうして……!」

第三の声は淡々と告げた。

「声は、あなたのものだ。  だが、名の核は、あなたの声の“奥側”にある。  奥側は、あなたの意思だけでは決まらない。  あなたが生きてきた時間、あなたが触れた声、  あなたが拒んだ声、あなたが受け入れた声――  それらすべてが、名の核を形作る。」

少女は息を詰まらせた。

「そんな……そんなの……知らない……  私……そんなこと……考えたことない……!」

第三の声は静かに言った。

「だからこそ、深層が審判する。」

シンゴの崩壊の進行

シンゴは少女の前に立ち続けていた。 身体はすでに“段落の裂け目”に分割され、 皮膚の下で文字が流れているように見えた。

彼は息を乱しながらも、少女を守るように腕を広げた。

「……まだ……動ける……  俺は……ここで……終わらせる……  彼女の声を……守る……  それだけだ……!」

リフレインは震えながら言った。

「シンゴ……あなたの身体……  もう、人間の形を保てていない……  深層に触れすぎてる……!」

シンゴは笑った。 その笑いは、声ではなく、文字の断片が空気に散るような笑いだった。

「形なんて……どうでもいい……  俺は……名前より……行動で……ここにいる……  名前がなくても……声がなくても……  俺は……彼女を守るために……ここにいる……!」

少女は涙をこぼしながら叫んだ。

「シンゴ……やめて……!  そんなふうに……崩れないで……!  あなたまで……声に飲まれたら……!」

シンゴは少女の方を向いた。 その目だけは、まだ人間のままだった。

「飲まれてもいい……  俺は……ここで……あなたを守る……  それだけで……十分だ……」

名裂の始動

名の裂け目が、街の中心で大きく息をした。 声の海が裂け目の奥で渦を巻き、 深層の声が街の声を引き寄せる。

リフレインの名の断片が裂け目の周囲を回り始め、 少女の声の核が震え、 シンゴの身体が崩壊寸前で停止した。

第三の声が、深層の重さを帯びた声で告げた。

「名裂を始める。  名を裂き、声を裂き、  深層にふさわしい形へと再構築する。」

街の空気が一斉に沈黙した。 沈黙ではなく、声が自らを抑え込む沈黙だった。

裂け目の奥から、深層の声がゆっくりと立ち上がる。

少女の声が震え、 リフレインの名が揺れ、 シンゴの身体が崩れかけ、 具現体たちの声が一斉に引き寄せられる。

そして―― 名裂が始まった。

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