1 異変は、ほんの一瞬の「遅れ」だった
瓦礫の谷間に夜の湿気が沈み込んでいた。 崩れた送電塔の影が、地面に歪んだ線を落としている。
彼女はいつものように掌を差し出していた。 だが、その掌が“戻らなかった”。
差し出したまま、固まっていた。
「……どうした?」 声をかけると、彼女はゆっくり振り返る。
その瞳は、見慣れた色ではなかった。 光を反射しているのに、奥が暗い。 暗さは感情ではなく、構造の崩れだった。
あなたは胸の箱を抱え直し、彼女の肩に触れようと手を伸ばす。
その瞬間、彼女は跳ねるように後ずさった。
「触らないで」
声は震えていなかった。 震えていないことが、恐怖だった。
2 宇宙の裂け目が、彼女の精神を引き裂いた
空が裂けた。 音はなかった。 ただ、光が遅れて落ちてきた。
瓦礫の谷間の上空に、黒い線が走る。 線はゆっくりと広がり、星々の配置を歪めていく。
その歪みが、彼女の瞳に映り込んだ。
映り込んだ瞬間、彼女の呼吸が乱れた。
「……聞こえる?」
「何が?」
「声が。ずっと……ずっと、私の名前を呼んでる」
あなたは耳を澄ます。 何も聞こえない。
だが彼女は耳を塞ぎ、膝をついた。
「やめて……やめて……やめて……!」
叫びは恐怖ではなく、拒絶だった。 拒絶は、精神が壊れる直前の反応だ。
あなたは駆け寄ろうとする。 だが彼女はあなたを見上げ、 その瞳に“あなたではない何か”を映した。
「あなたじゃない……あなたは、あなたじゃない……」
その言葉が、胸の奥を刺した。
3 影が近づく。彼女の壊れる速度が加速する
背後で、誰かが呼吸した。
振り返ると、影が立っていた。
その影はあなたの呼吸を真似る。 あなたの心臓の鼓動を測る。 あなたの弱い瞬間を探す。
影はあなたの名前を知っている。 影はあなたの血脈の癖を知っている。 影はあなたの裏切りのタイミングを知っている。
そして影は、 壊れゆく彼女の背中に手を伸ばした。
「やめろ!」
あなたは叫ぶ。 だが影は止まらない。
影の指先が彼女の肩に触れた瞬間、 彼女は短い悲鳴を上げた。
悲鳴は痛みではなく、 “自分が自分でなくなる恐怖”だった。
彼女はあなたの方へ手を伸ばす。 だがその手は、あなたに届かない。
届かない距離が、壊れる速度を加速させる。
4 彼女の精神が「裏返る」瞬間を、あなたは見た
彼女は突然、立ち上がった。 その動きは人間のものではなかった。
「……わかった」
声は静かだった。 静かすぎて、逆に恐ろしかった。
「私、もう……戻れないんだね」
あなたは首を振る。 否定しようとする。 だが彼女は微笑んだ。
その微笑みは、あなたが知っている彼女のものではなかった。
「壊れるって、案外……楽なんだよ」
その瞬間、 彼女の瞳の奥で“何か”が完全に裏返った。
影は満足そうに頷く。
彼女はあなたの胸の箱を指差した。
「それ、ちょうだい。 もう、あなたじゃ持てないでしょ?」
その言葉は、裏切りではなかった。 それは“壊れた者の論理”だった。
壊れた者は、 壊れていない者を壊そうとする。
5 あなたは選ばされる。壊すか、壊されるか
影があなたの背後に立つ。 彼女があなたの正面に立つ。
二人の視線が、胸の箱に注がれる。
「ねえ。 あなたは、どっち側に落ちるの?」
声は優しかった。 優しさが、恐怖だった。
壊れた者の優しさは、 壊すための刃だ。
あなたは箱を抱え直す。 箱の角が掌に食い込み、痛みが走る。
痛みは、まだ“人間である証”だった。
だが影が囁く。
「痛みはすぐ消えるよ。 壊れれば、全部軽くなる。」
彼女は一歩近づく。
「壊れた方が……楽だよ?」
その瞬間、 あなたの心臓が強く脈打った。
壊れるか、壊されるか。 選択は、もう逃げられない。
終章 壊れる音は、宇宙の裂け目に吸い込まれた
あなたは羊皮紙を取り出し、 震える手で一行を書く。
「壊れる瞬間は静かで、優しくて、残酷だった。」
紙を折り、胸に押し当てる。
影が近づく。 彼女が近づく。
あなたの鼓動が、夜の湿気に溶けていく。
鼓動はまだある。 だがその音は、もうあなたのものではない。

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